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ここが残念「銀色の髪のアギト」

さて、あまりにも正面から素直に作りすぎたために「すごく真っ当な作品」とはなったものの、逆に作風としてはイノセントになり、大きなカタルシスにまで至らないところが残念でした。

その原因は、一緒に見に行った友人も言ってましたし、いくつかのブログも拝見したところ書かれていましたが、上映時間(映画としての尺)が足らなかったこと。
このため、世界観の説明や物語の伏線といったものが不足しており、主人公としてのアギトの行動原理にも納得性が欠けた単純な図式になっていましたし、物語の決着のつけかたも目の前の事件を片付けただけで、めでたしめでたしで終わってしまったので、こういうところで、今一歩で名作になり損ねたと思います。

*以下、1回しか見てない記憶で書いてますので、記憶違いや見落としがあるかもしれません。
*また、ネタバレも含みますので、ご注意ください。

■ アギトのこと

キャラ紹介では、「幼い子供をそのまま大きくしたような純粋無垢な性格」と表されていますが、まさにそのとおり。
物語の発端となる森の地下深くの禁断の泉に冒険がてら水を汲みに行き、そこでトゥーラと出会うのは、その性格ゆえでもいいのですが、その後、イストークを起動させるためにラグナに行ってしまったトゥーラを助けに行こうとする決断から、助けるに至るまで、そのままで何の成長もない(としか見えない)のです。

実際はトゥーラが自分の意思でラグナに行ったので助けるも何もないのですが、その後を追うアギトの姿は、まるで大事な(玩具とまでは言いませんが)ものを取り上げられた子供が、返せと駄々をこねているようです。
まぁ、最後はトゥーラの行動が間違っていたため、それを止める手助けをしたことで、結果論では悪い行動ではなかったのですが。

それでも、森の力を身に宿すためには人ではなくなることであるのに、まったく躊躇することもないし、森の力を身に宿した後に、その力の検証のために森の意思に示されるまま、ラグナのメカを切り裂く姿には、人を殺めることや、物を破壊することに対する葛藤も何もないのです。
見方によれば、善悪の判断をうまくつけられない子供が、自分の意思(欲望)に忠実なまま力を振るっているだけにしか見えないのが恐いところです。
大きな力を手にした者は細心の注意を払って、その力の使いどころを思慮すべきだと思うのですが・・・。
せめて、破壊されるメカの中に兵の姿など描かなければ、まだ、そのアクションはただの記号として捉えられますが、中途半端に人間の姿など(刺激的に)描くのが最近の悪い風潮です。
人間の姿を描くならば、少しでいいから、それに対する痛みも描き、それでも決意し行動する(せねばならない)という状況、想いをきちんと描ききってほしいものです。

別に、主人公の悩む姿ばかりを見せられても面白くもなんともないので、それをメインにしろとは言いませんが、アギトにこういう心情の揺れがほとんどなかった(最後で植物に取り込まれてしまったときに少しはありましたが)ので、物語に流されて動く主人公となってしまって、成長しきれなかった(と見えた)のが残念でした。
やはり、物語を通して、主人公が、世界を知り、本当の情愛を知り、成長していく。というところに感動があると思うのです。

なんか、あらゆることに対して、精神年齢は小学生のままのようでした。

そういう意味では、15歳のアギトが18歳のトゥーラに対して、最初は年上の女性に対する子供の憧れであったものが、二人の心の交流を通して少年の恋愛に変わっていくというエピソードがあってもよかったのかもしれません。
今のままでは、好きといっても、ただトゥーラの容姿に惚れて、境遇に同情しているだけのようでありますし。
ここは、映画のキャッチコピーに”友愛”とあるので、時間的にもあえて踏み込まなかったところでしょうか。

世界は、そう単純ではありません。

少年の単純(純粋)な想いが、閉塞した世界の枠組みを壊し、新しい世界への道を開く。
一人の少女を救うことが、世界を救う鍵になる。
という図式にしたかった制作側の想いはわかりますが、それにしては、キャラの演技、表現不足であったことは否めません。

■ エピローグのこと

今回の物語が終わった後、荒れた土地に(たしか)父親から託された花を植えるシーンがあります。
これはこれで、受け継がれた想い、未来への希望を植えるということで良いのですが、これに加えて、更に現実的な未来への希望を見せてくれても良かったと思うのです。

300年前に月を破壊し、地球を荒廃させる原因となってしまった植物の暴走、現在の””となってしまった植物群は、人により歪んだ遺伝子を持たされ、歪んだ進化となってしまった生命です。
ならば、未来への希望は、その歪んだ進化を正す。または、新しい進化を促すというカットで終わってもよかったと思います。

植物に取り込まれたアギトの想いが、植物の深層意識に沈み深く浸透したアギトの父の想いが、植物としての正しい有り様としての遺伝子の変化・進化を促す。
または、歪められた植物の遺伝子とヒトの遺伝子が融合することで、植物の正しい進化を促す。とかです。
進化とは、偶然や環境適応、遺伝子の優勢劣勢等によるものだけでなく、『生命の生きるという未来への意思や想い』によるものでもあるというのでも、いいかと思うんですけどね。
(別に神秘主義というわけでもありませんし、浅学でもありますので、進化云々については正確な認識であるとは言いませんが。)

ここらへんが、即物的に表現されたのが、実体がなかったベールイ・ゼールイが植物の果実の中から実体を持つ赤子の姿として生まれ出でているというエピローグのカットです。
劇中でも、植物に取り込まれたアギトが、再び人間の姿に再生して果実の中から生まれ出ずる際に、実体のないベールイ・ゼールイの姿が重なり一人の(少女の?)像となるシーンがありますが、これは植物群の中で分たれた遺伝子(元々の植物の遺伝子と取り込まれた生物・人間の遺伝子)が、アギトの人間として再生したいという想いに触発されて、融合し進化したのではないでしょうか。

でも、人間体の姿をとる植物の進化(意思を持ち、動くことができ、光合成により生命活動エネルギーを得ることができるのでしょうか。-これはある面、植物の理想の進化ではありますが)ではなく、植物は植物の姿で、人間は人間の姿で、次の進化に至って欲しかったと思うのです。(人間の傲慢ですね ^^;)

植物に取り込まれた人間は普通は再生することはない。
ならば、生命の想いでヒトに再生できたアギトの中にも、次の人類への進化のための、植物の遺伝子=想い=生命の記憶が内包されている。
普通は、ああいう風に再生されたら、元々の遺伝子情報によって再生されるので、黒髪に戻るはずですが、あえて銀色の髪のままというのは、植物の生命としての力をもって、生物としての次の未来への種となる想いを託されたからではないでしょうか。

植物の方は、できれば、赤子の生々しい表現ではなく、新しい生命の息吹としての芽が、森の奥の地下にある泉の小島に発芽している。(ここらへん、ナウシカに影響されてます。笑)
というカットの方が、淡く余韻があってよかったかな~と思います。
もしくは、冒頭が細胞核の歪んだ異常分裂のカットから始まったので、同じようなカットで次なる正しい進化へ進もうとする細胞核の分裂を見せながら、それがフォーカスして生命の満つる青い地球や銀河にかぶさっても幻想的(?)だったかもしれません。
ただ、こういうラストカットは、劇中に伏線のシーンやカットを撒いておかないと効果的ではありませんが。(笑)

新しい人類と植物があまねく地に満ちるまでは、まだ幾多の時間を必要とするのかもしれませんが、300年前の悲劇から今回の事件までの時間は、次なる進化への試練でもあったのであれば、その物語は伝説的に語られるのではないでしょうか。

・・・・・・と、勝手な脳内妄想を繰り広げてきましたが、ここまで、お読みいただいた方、ありがとうございました。m(_ _)m
他に、舞台設定や展開の伏線に関するところ、植物を通した進化など「樹魔・伝説」(水樹和佳=今は、水樹和佳子)を思い出させるところを書こうと思ったのですが、更に冗長な原稿となってしまったので、もう1回、次にまわします。
よろしければ、あと1回おつきあいくださいませ。(^^

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