時穴より出づる~蟲師 #17「虚繭取り」

蟲師は如何にして伝うるを得るか。

17mayu01 今回のネタは蟲師ネットワークのヒ・ミ・ツ。(^^;

通信手段がそれほど発達していない時代設定で、蟲師たちがどのようにして連絡を取り合っているかが良くわかる一本。

17tama 17uro 17uro02




その仕組みは、二匹の蛹の二本の糸で作られた一つの玉繭をバラして、一本ずつで二つの繭に作り直すことで、中に閉じ込められた蟲がその繭の間しか行き来できなくなることを利用するもの。
片方の繭に文を入れておくと、行き来する蟲がもう片方の繭に一緒に持ってってくれるというものですが、繭から繭へ空間に虚穴(うろあな)を広げて移動する、この空間次元転移を利用した方法は、まさにワームホールを地でいく蟲たち。(大笑)

大袈裟に言えば、片方がブラックホールで、事象の地平を越えて、もう片方のホワイトホールに吐き出すみたいなものですか。
虚数空間
 か ディラックの海 でも泳ぎまくってるのかな。(^^

虚(ウロ)さん、虚ろなるモノとは、よく名づけたものです。
作者のセンスの良さが光ります。

17ito00 17ito01 まぁ、今回の話の柱は、蟲の正体、ネタばらしではなく、子供の頃の己の過失で双子の姉を蟲による虚穴に取り込まれ失くしてしまった少女”綺(あや)”の心の救済な のですが、蟲のことは既にわかっているし、ギンコも手が出ないほどの蟲の性質のため、ただ心に深く己を責め続けることを少女に止めさせることしかで きない というものです。
17ito03 従って、物語性は薄く、過去からの状況が17ito02淡々と語られるだけなので、かなりあっさり感があります。

これが、玉繭から生み出される二つの繭、双子、対なるもの、

というキーワードで、己の半身を求め愛とおしむものではなく、逆に相似が故に対なるものを疎み、心の闇を蟲に取り込まれ、己が半身を己が魂とともに永遠に失くしてしまうとかいう話であったれば、もっと暗く、ドラマ的であったかもしれません。
教訓的ではあっても、まったく救いがありませんが。(^^;

17twin01 17twin02 双子で互いが互いを思いやり、愛とおしめば愛とおしむほどに、失くしてしまった半身を求め焦がれ、自分を責め続ける。
その心の闇が自分を飲み込むほどに、穿つ穴が手遅れになる前に、

17aya 「お前が手を尽くしても追いつくものじゃない。」
「お前の中の、でっかい空洞の口は塞げ・・戻ってこれなくなる前に・・・。」

と、残酷な事実を沈痛な面持ちでギンコが綺に宣告するのは、まだ救えるべき生者の魂を迷わせないためためでしょう。
亡くなった者のことばかりを追いかけるのは、生に背を向けて、両の手で目を塞いだまま暗闇の中で死を追うようなものですし。

ギンコと綺が巡る巨大な虚穴は、胎内巡りの産道を思わせます。
虚穴を通って再び外界に出るのは、時間と空間を越えるときに、入るときに抱えていたものを全て浄化し、魂の再生とともに再び産まれ出づることとも取れます。
だから、虚穴に長居してしまうと、現世の煩悩や穢れとともに記憶を全て失ったりもするのでしょうか。

母親の胎内に生まれた生命は、暖かな羊水の中で、長い長い進化の時間を経て、卵子から人の肉体を得て、産道を通って生まれ出ます。
そして、生まれ出づる瞬間に、それまでの記憶をなくし、哀しみに満ちた現世といえども、世界に生まれ出た喜びに歓喜の声を上げるのではないでしょうか。

今回は物語性は薄いといえども、空間次元転移のネタや時間(とき)の産道を通っての再生など、SFの香りがすごくします。
ただ、うまくオチに繋がらなかったのが、その点は、発想と物語の構成が難しかったのかなと思います。
17ito 綺の姉の緒(いと)が、虚穴に取り込まれたままの姿で、数年後に再びこの世に現れ出でることになるきっかけが、綺がギンコと共に虚穴に入り、ある事を為した事であったという伏線が張れて、それとうまく繋がる構成になれば、最後に「にゃるほろ!」と感心できたかもしれません。(^^

単純に考えれば、神隠しで再び戻ってきたら、元の世界は何年も時が過ぎていたというとこでしょうが。
なにせ、蟲の時間は人の時間と流れが違うそうですから、蟲が作った虚穴の中は、それこそ蟲と同じ時間の流れなのかもしれませんね。
000.
・・・というところで、全26話中、ほぼ2/3が終わりましたが、たまたま月刊アフタヌーン4月号を見たところ、#20話で監督が絶対自分でやると言っていた淡幽お嬢様の「筆の海」ですが、TV放映はこれで終わり?!
残りの6話はDVD発売のみって、そんな売り方はないでしょー!?
確かに作品レベルは高いから売れるでしょうけど、無料の地上波放送で、あれだけの作品を放送することに価値があるんですよ!
エイベックスの戦略か、フジTVの謀略か、はたまた制作が押してしまったのか、元からスケジュールがそんなだったのか。
何にしろ、#20話でTVが終わったら、#21話のDVDが発売されるまで半年も待たされるじゃないですか・・・。( iдi )

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ほろほろと花の散るがごとく~蟲師 #16「暁の蛇」

ほろほろと桜の花びらの散るがごとく・・・。

今回は、記憶を喰う蟲のお話。
同化している木の木蔭で人(動物)が眠っている間に身体の中に入り込み、宿った人(動物)の記憶を喰らい、いえば眠りをも喰らうことになる影魂という蟲のこと。
「春眠暁を覚えず」というのでは、あまりにストレートな振りなので、気持ちだけ詩的な振りを入れて見ました。(笑)

16kage1 物語の方は、蟲による人の生き死にがどうこういう話ではないので、そこまで深刻ではないのですが、記憶を喰った影が残るシーンや大量16kage2 の記憶を喰った蛇の影がのそりと出て行くシーンは少しホラーぽかったです。(^^;

人間は忘却の動物で、悲しいことや辛いことを忘れられるから、心を押し潰されずに生きてゆけますが、それは本当は忘れるのではなく薄らぐことで、嬉しかったことや悲しかったことも全て自分の生きた記憶(メモリー・思い出)として大事なもの。

16sayo1 16sayo2 くしゃみにびっくりしたり、お腹の虫に驚いたりの、蟲に宿られたお母さんが天然キャラなところで少しは救われてますが、見方によっては認知症か若年性アルツハイマーの人を介護する家族の苦労を思わせる気がします。
そのような体験をしたことがないので、まだ本当の大変さはわかりませんが、それも一つの記憶として生きることを大事にしてあげればと思ったりします。
記憶がなくても優しい心は忘れてないと思いますし・・・。

さて、話の方は半分ちょいで蟲の正体の説明などギンコの出番は終わり、後は蟲に宿られた母”さよ”と、その息子”カジ”の後日談が、息子であるカジの口から語られるのですが、切ない物語です。

16 記憶がなくなる症状も蟲のせいということがわかり、一応の安心をした”さよ”は、行商の旅に出たまま帰ってこない夫を捜しに、カジを連れて当てをつけた西の街に旅立ちますが、そこで見たのは、他の女と子を生した夫の姿。
その姿に居たたまれずに、”さよ”は踵を返して、家への帰路につきますが、思いつめて食事も睡眠も取らずに歩き続けた結果、倒れて何日も眠り続けてしまいます。

そして、眠りから覚めたときには、”さよ”は記憶の大半を喰われ、今まで他の事は忘れても、あれだけ忘れなかった夫のことも全て記憶を失くしてしまっています。
それは、やはりストレートに考えれば、辛い事実を忘れたかったからでしょうか。

16kage3 ”さよ”の記憶の大半を喰った影魂が、あれだけ巨大になったのは、実は自分では意識しないまでも、かなり重いドロドロしたものを心の中に抱えていた からと思えば、女の情念を見るようで”コワイ”のですが、ここはやはり、忘れてしまいたかった夫との大事な思い出が、あれだけ溢れ出るほどに心を満たして いたと思うのが素直な見方でしょうか。

記憶領域をほとんど喰われ、日々起こったことも次の日には忘れるような身となり、夫のことも全て忘れてしまった”さよ”ですが、それでも大事なこと は心に覚えていて、昔と同じように夫の無事を祈る蔭膳

16sayo3 「なぜか、こうすると安心する」

と知らず知らずのうちに毎日作り続ける姿は、人の切ない想いを見る ようです。
また、そんな母親の姿を切なく見続けるカジの姿も・・・。

冒頭そしてラストに、ほろほろと桜の花びらが散りゆくさまは、手の平の隙間から零れゆく記憶・想いでの欠片を表しているようです。

16sakura 紡いでも紡いでも溢れだすように零れてゆく記憶の欠片。

そして、掌に残るは大事な・・・。


記憶を全て覚えておくことも、全て忘れることもできず、ただ大事な思い出だけを抱えて生きていくのが人間でしょうか。

そ れにしても、行商人の夫は薄情にも”さよ”のことを忘れたのではなく、彼も影魂の物忘れゆえに他所の街で慕う女と一緒になったのではないかと思うと、まだ救われるのです が、離れていても”さよ”が夫のことを忘れなかったことに比べたら、やっぱり妻のことを忘れてしまうのは薄情ですかね。(^^;

”さよ”を演じるは天野由梨さん、カジを演じるは岡村明美さん。
力のある2人です。

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生命の温もり~蟲師 #15「春と嘯く」

long1 これぞ日本情緒という雰囲気の物語。
宵闇にしんしんと静かに降る雪。
雪山に差す光。吹き通る風。しんと冷え切った空気。
そして、温かみを感じる、ほの明るい家の灯り
long2 冬の雪山の情景といえども、ただのモノトーンではなく、淡く豊かな色彩に彩られています。この微妙な濃淡の美しさに感じ入れる日本に生まれてよかったと心底思わせてくれるような画作りです。

usobuki1 まして、その雪山の中に忽然と現れる春の情景は、まるで桃源郷を見る思いがします。
その目の眩む情景こそが春まがいの罠でしょうけど。(笑)

穏やかな雪山やBGMをバックに淡々と描かれる物語は、心に圧し掛かるような重苦しさはなく、冬の囲炉裏端で爺婆の夜語り、昔語りを聞いている感じがします。

まぁ、蟲の影響でそのまま寝たきりの昏睡状態になったり、生命活動が停止してしまってれば大事になる悲しい話になるところだったのですが、空吹(うそぶき)の花の芳香でひょっこり目を覚ます仕掛けがしてあるところが、思わずふっと、にやっとさせます。
ぐーすか寝こけるなんて、三年寝太郎かいっ?!(^^;

usobuki6 しかし、春の芳香に誘われて目を覚ましたり、その際に、春の鼓動が聞こえてくるような表現は、啓蟄という言葉をそのまま見ているようですね。

西洋の春が冬と夏の間の明確な区切りの季節であるのに比べて、日本の春が冬から季節が移りゆく曖昧な頃合いからを指すところを思えば、またそれも風情があります。

ところで、冬山で春まがいに惑わされて眠りにつく者の体温が急激に下がるというのは、仮死状態に近いところまで脳内活動、生命活動が低下させられているということですかね。
でも、お互いが互いの領分に踏み込まず、かすかに交差するところで共生するところが上手な関わり方なんでしょうね。
それは、人と蟲の間だけでなく、普通の人と蟲師の間にも言えるようです。

suzu 最初は「ギンコ・・さん」と、よそよそしかったのが、いつしか心の頼りとするように「ギンコ」と呼ぶようになった”すず”。
そんな”すず”の想いを知りながらも、一つ処に情を残さないように飄々たる旅を続けるギンコ。
ginko

今回のラストで、姉の”すず”のことを思い、ギンコに「また来るよな?」というミハルに、「冬じゃねえ時にな」と答えるギンコ。

その理由の「人間も冬は弱っていかんからな」
というセリフは、TVの初見では、なんとなく流して聞いてしまっているだけでしたが、原作で改めて文字で読むと合点がいきました。

light 家の灯り。里の灯り。生活の灯り。
それは生命の温もりが灯るところ。人々が暖かく身を寄り添って生きているところ。
漂泊たる身のギンコでも、ふと心まどろぎ長居しそうになるのですから、普通の人には増して、とても大事に思えるところですね。
日々の暮らしの安らぎとなる、そんな家、家族を大事にしてくださいね。

今回は本当に重く語るものはありません。
まるで、柳田國男が東北地方の民間伝承を聞いてきたような、深い雪里で春の宵を待ちわびる人たちが伝え語ってきた昔話のようで、心にしんみりと沁みるいい話でした。(^^
←蟲師のエピソードで、にこりんマークが出るのは珍しいですよ。本当に。

・・・と、時間がなくて他の番組の原稿も溜まってるので、あっさり書こうと思ってたけど、また長くなってしまいました。反省。

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世界はただ美しく~蟲師 #14「籠のなか」

か~ごめ籠目。か~ごのな~かのと~り~は。
い~つ、い~つ。出~やぁ~る♪

ということで、今回は竹林の籠に囚われた男(キスケ)の話。
大元ネタは竹取物語というのはご承知のとおり。
いや、存外、かぐや姫も鬼蠱だったのではと思わせるような話です。

キスケの状況は妻のセツ(蟲と人の間の子)と子供の頃に竹林の中で遊んでいたときに、セツから分けてもらって飲んだ竹の水の影響によるものなのですが、当然キスケもセツもそんなことは知る由もなく、ギンコによって初めてその事実が明かされることになります。

セツ自身も人の姿はしていても、本当の人間でなく、蟲の影響を受けて生まれた身であるため、竹の姿をした蟲から離れて生きられないのですが、その想いは人間より人間らしくあります。
setu take3 竹の影響で愛するキスケが自分と同じように竹林から離れられずに、傍にいられることを愛おしく思いながらも、キスケを竹林の中に閉じ籠めてしまったことを詫びるように、親にも近しい、自分と娘に命の水を与えてくれていた蟲を切り倒してしまいます。
それは愛する人のため故に取った哀しい行為。
その代償を、他人への罪とするのではなく、自分自身への罪として受けた結果、悲しい結果となってしまうのですが・・・。

kisuke しかし、セツの献身のおかげで竹林を出ることのできたキスケとその娘に対する村人の排他的な態度は、ある意味、人の愚かしさを見るようです。
呆然とするキスケと娘の泣き声が痛々しいです。

人は自分と違う異質なモノを疎ましく思うもの。
それは、自分に害を成さないものでも、自分と違った姿、考え方であるというだけで、簡単に自分たちの枠の外に追いやってしまいます。
人種の違い、文明の違いというところはもとより、同族、同年代の中でさえ、狭歪な自分の価値観と異なるというだけで、恥も知らず群れをなし他人を拒む人々。
それは、あたかも自分たちだけの籠の中に閉じ籠っているかのようです。
ほんの少しでいいから籠の隙間を開ければ、その先には広い世界があるはずなのに・・・。

はてさて、それと気づかずにぬくぬくとした籠の中にいるのが幸せなのか、厳しい風が吹いていても広い世界で生きるのが幸せなのか。
あなたは、どちらですか?(笑)
キスケはセツの出自に惑わされず、セツ自身を愛したのですよ。

baby ところで、キスケとセツの娘が疎まれるのは、生まれたときに竹の子のように、竹の皮に包まれていたことにより、その出自が人間でないということがわかったからなのですが、これは生態系が違うだけで、羊膜みたいなものと思えば、違和感はない・・かな。(^^;

とはいっても、やはりも蒙昧な人々にとっては受け入れがたいことで、村には受け入れてもらえないことを悟ったキスケと娘が再びセツの元に戻って、
kisuke2 「それから、しばらくは、三人は幸せに暮らしたという・・・」
というところで終われば、解りあえない相容れぬものの虚しさを感じさせる普通の終わり方。

kisuke3 これを捻って、蟲を切り倒した影響を確認しに、半年の後に再び竹林に戻ってきたギンコが目にしたものは、命の水を得る術を失くしたセツと娘が朽ちるように死んだという二つの墓、というのがいつもの哀しくやるせない終わり方。

take2 今回は、さらに捻って、また年がめぐり竹の葉が落ちる季節に、1年前にキスケが娘に語って聞かせたように、落ちる竹の葉が竹の子供を育てる素となるように、二人の墓から生えた竹の子の中から赤ん坊の声が聞こえてくるという、秀逸の終わり方。
take4 take5 kisuke4 take6




竹の多年生植物というネタを活かした、生命の再生、輪廻というところにキスケの想いが混じり合って泣かせます。
動物が自身の子宮に生命を身籠るのと同じように、竹林という籠の中の子宮に身籠ったようなものですね。

take 今回の舞台の竹林
森の木々と違う感じで陽光が差し込む様は、まるで羊水の中から外の世界の光を見るようです。(・・・そんな記憶はないですが。^^;)
あえて言えば、海の中から仰向けになって空を見る感じですかね。

陽光を受けて光沢のある竹の質感は、まるで碧の水晶をみる感じで美しいです。

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蟲師 #12「眇の魚」と#13「一夜橋」

TV感想復帰第一弾は、蟲師の#12話と#13話で。
しばらくは、書こうと思って溜まってた番組ごとに2~3話ずつまとめて上げていきます。

■ #12「眇の魚」

物語りも折り返しを迎えようとする中、今明かされるギンコ誕生秘話。
・・・という安直なコピーとは無縁な過去語り編。
悲しい物語ではありますが、それを大仰に感情を昂らせて表現するのではなく、孤独な魂どうしが触れ合ったゆえの哀しさ、切なさが、ただ事実とともに描かれ、それが逆に深く静かに心に残ります。
瞼の光」で触れられたギンコの左目の闇の理由も語られます。

この物語でギンコの名前の由来が、ある蟲の名前であることが語られるのですが、その名ゆえに、今のギンコには、この物語で語られた過去の記憶がないということも、私たち視聴者(読者)にも明らかにされます。

実の母親との死別、一時の生活とはいえ肉親の情に近いものを感じていてた”ぬい”との別れ。
悲しい記憶ではありますが、その記憶さえも失くしてしまったことは、本当は凄くツライこと。
でも、記憶とともに自身の存在さえも失くしかねないところを救ったのが、”ぬい”が語った「ギンコ」という言葉。
それで全てが良かったというわけではないのですが、この名を得たということが、”ぬい”により、新しい生、新しい存在を得たことでもあるのが、一つの救いであったと思うのです。
儚げな存在である生命でも、名を得ることにより実存として認識され、魂とともに在ることができるようになる。
だから、古来より真の名を知る(得る)=言霊というのは凄く大事なことなのですね。

nui ”ぬい”を演じるのは、渋く恐いナレーションも担当している土井美加。「一条くん!」とか言ってた頃とはエラい違いです。(笑)
全てを覚って静かに消えゆこうとしていた”ぬい”ですが、偶然とはいえ出会ったヨキとの暮らしにココロ癒されていたのでしょう。
この惚けた表情が、いいです。

ginko 子供の頃のギンコ=ヨキを演じるのは沢城みゆき
なかなか味のある声の演技をしてます。少年役も似合うじゃないですか。
今回の事件を経て、銀髪碧眼となったギンコの表情は、ヨキの頃の子供っぽい顔と比べて、すごく大人びています。
辛い現実でも、厳しい事実を乗り越えていくことで、少年は成長していくものです。

■ #13「一夜橋」

どこかには救いのある他の話から比べると、「枕小路」以上にこれまでで一番救いのない話です。
物語の半分ほどで、蟲の影響で生きているようには見えるものの、既にハナは死んでいるということは語られてしまったので、死んでしまった者への想いに引きずられた結末になってしまう(ゼン自身もハナと同じ境遇となってしまう)ことは、ある程度予想できたのですが、めっちゃ救いのない話となってしまいました。

一夜橋が片方にのみ渡れ戻ることはできないというのは、生きていくことはどこまでも一方通行で、失われた時間や生は二度と戻ることはないという比喩でしょうか。
それでも、ここで救いを与えようとしたら、不幸な運命ゆえに、ともに現世での命は絶えたとしても、蟲に紡がれた二人の想いが一夜橋と重なり合って、新しい生への輪廻(生命の源流=光酒)となっていく様を見せるとかでもよかったのでしょうが、この蟲師という作品、不可思議な蟲を題材にし、そこに表れる人の想いを表現しながらも、起こる事象はそんな人の想いなど微塵も関係なく、すごく冷徹なのです。
それは、ぬるい人の感傷など受け付けない自然の摂理とでも言うのでしょうか。

それにしても、戻ってはならない、後ろをふりかえってはならないという状況は、古事記でイザナギがイザナミを迎えに行った黄泉比良坂での顛末を思い出してしまいましたが、変わり果てたイザナミから逃げ出した薄情なイザナギに比べ、ハナへの想いを絶ちきれなかったゼンの姿はすごく哀しみに満ちていました。

zen 少しでも永く生きていてほしい、どんな姿でも生きていてくれるだけで、自分自身も生きていられると想うゼンの姿は、死期を宣告された人を見守る者の気持ちを見るようです。
現実においては、人の尊厳をなくしてまでの延命治療には疑問視しているのですが、それでも、お話の中のことではなく、実際、自分の命と変えても生きていてほしいと願う気持ちが自然に起こるのが人間と思うのです。

でも、それだからこそ更に、最期まで看取った身としては、亡くなった人への想いに引きずられたり、あだおろそかに死んではならないと痛感するのです。

ゼンの不幸は、ハナが亡くなる原因に自分が関与していたことゆえに、そのような心の葛藤に抗えなかったことですが、それもまた愚かとは言えない人間の哀しさですね。

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無力を知る~蟲師 #11「やまねむる」

うぅっ。(ノ_<。)
やっぱ、哀しく、いい話です。「やまねむる

原作では読んでしまってたので、最初は追体験で見てる感じで、そんなでもなかったのですが、ムジカの庵での語りあたりからは、やっぱり画面に入り込んでいました。

里の者に頼まれて山の中に自分を探しに来たギンコに、実は山のヌシであることを覚られたムジカ(里の者にはヌシであることを隠して蟲師として生活しています)は、ヌシとなった経緯を語りますが、その内容には、あえてぼやかしていることがあります。
その真実は、後に知ることになるのですが・・・。

ムジカが語る傍らには、ムジカを探すためにギンコについてきた、ムジカの弟子のコダマが寝入っており、ムジカは語るともなく、ギンコにコダマの身の上を話し始めます。
この里の者は多産だが、皆を育てられようもあるはずもなく、そのような子供は産まれてすぐ山に捨てられるのだと。
コダマも、そのような子供の一人ではあったが、幸いムジカに拾われ、一年前に再び里の親に引き取られたことなど・・・。

口減らし(嫌な言葉ですが間引きとも)・・・は、悲しい事実ですが、近世までは貧しい村では現実に行われていたことです。

そして、蟲を呼ぶ体質ゆえに流しで蟲師をやっているギンコの身の上を、ムジカは
「(ヌシゆえ)この山から一歩も出られん身からすれば、ちょいと羨ましくもある」と言います。

mujika 更に、
善かれ悪しかれ、俺が骨をうずめるのは、この山以外にありえんからの・・・」とも。
既に、このときムジカは覚悟を決めていたのでした。
覚悟を決めた男の顔には、深いものがあります。

mujika1 kodama 次の日、ムジカの無事がわかったためギンコとともに一旦里に帰るコダマを、優しく見送るムジカの顔にも・・・。

そして、一度は里に戻ったものの、ムジカが自分の身を呈して、ヌシの交代を計っていることを覚ったギンコは山に戻り、何とかしてムジカを助けようとしますが、時すでに遅く、ヒトの力ではどうすることもできず、目の前でヌシの交代は行われ、巻き込まれたギンコは気を失ってしまいます。

saku 巻き込まれたための記憶の共有か、ギンコの夢の中でみるムジカの記憶・・・そこには、ムジカが犯した罪、そして自分を愛したために犯した朔の罪が。
その結果、本来はヒトがなるべきでないヌシに、ムジカ自身がなってしまうのですが、ヒトである身では、全てのことにまでヌシとしての力を及ぼすことができなかったのでしょう。

たぶん、その一つが、山の精気を受けた水を飲む里の者たちの多産。
ヒトであるがための限界で、山から溢れ出る精気すべてを司れなかったのではないかと思うのです。
愛されるために産まれ来る子供たちであったはずなのに、それを里の者に口減らしさせてしまうことになったのも、また、己の罪。

ムジカ自身もギンコと同じように蟲を呼ぶ体質だったために、一つ処に居られない運命だったものの、朔とともに在りたいと思ったがために、それを御する(自分では禁忌としていた)術を口の端に乗せてしまい、ムジカとともに在りたいと願っていた朔に、それを聞きとめられてしまいます。

人間ゆえの哀しくも愚かしい情愛ゆえの罪。

そして、ヌシとなったがために山とともに在らねばならなくなった身。
山の庵でのギンコへの言葉は、自嘲でもあり、償いへの懺悔でもあったのではないかと思ってしまうのです。
そのための、ヒトではない、大きなモノへのヌシの交代・・・。

そして、ギンコが目覚めたときには、ヌシの交代の結果、すべての事は何事もなかったことになり、里の者はムジカの存在そのものも忘れてしまっています。
ただ二人、ヌシの交代のときに山にいたギンコとコダマにだけ、そんな蟲師が、ヌシがいたという記憶だけを残して。
ムジカ自身にはその覚悟はできていたのが、山の庵でコダマを見送ったときに、既に次代の者に自身の技、自身の想いを伝えていたという笑みだったのだと思います。
それでも、予期していなかったことではあっても、コダマだけはムジカのことを忘れえぬこととなった。これが、せめてもの救いです。

ginko すべtのことが終わり、コダマに黙って里を後にするギンコは、ムジカを救いえなかった無力感を、一人、呟きます。
ムジカが羨ましいと言った自分が、ある面では、一つ処に居られるムジカを羨ましいと思い、何としても助けたかったという想いを抱えて。
しかし、その術はヒトにはなかったのですが・・・。

やはり、この件があったからこそ、「重い実」では、蟲師としての禁忌に触れてまでも、犯した罪を自らの命で購った祭主に、再び命を還す手助けをしたのではと感じるのです。
もちろん、人間くさいギンコの考えそのものあると思いますけどね。
今回も、ムジカを助けに行こうとするとき、コダマに本当のことを知らせまいとするところもありましたし。
そんなところが、ギンコの魅力でありますね。

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ちょっと一服~蟲師#10話「硯に棲む白」

今回は、けっこう淡々と静かに見れた、お話でした。

いや、状況は、硯に閉じ込められていた蟲により死に至ろうとしている子供達や、自分が作った硯のせいで(実際は硯の中の蟲のために)死んでしまった婚約者など、重たい部分は、あいかわらずあるんですが、発端が「生きるの死ぬの」ではなく、極みを求める職人の魂によるものというところが、けっこう現実的な人間の描写に繋がっているようでした。

子供達を助けようとする化野せんせいの医家としての現実的な奔走や、子供達の身体の中から蟲を追い出すのに、気圧の差を利用するギンコの物理学者のような冷静な対応も、また然り。

suzuru1 件の硯は、病床に倒れた父の代わりに、世に認められる硯を作りたいという”たがね”の想いと、石から甦りたいという蟲の意思とが呼び合った結果でしょうが、立派な硯を作りあげたにもかかわらず、硯の原石が石となってしまっていた蟲であったために不幸を呼んでしまいます。


蟲のことを知らなかったとは言え、自分が作った硯を手にした婚約者が死に、更に硯を手にした人たちが次々と死んだということは、職人としての”たがね”にとっては、耐えられないことであったでしょう。(手にした者が死ぬというアイテムでは、スミソニアン博物館に保管されているブルーダイヤモンド「ホープ」が有名ですね)
だから、職人としての道も絶ち、一件が終わった後に件の硯も壊そうとします。
自分の仕事に責任もプライドも持たない、どこぞの不祥事企業や○○士とかいった人たちとは、えらい違いですね。
suzuri2

だけど、生み出された硯そのものに罪はない。
それを絶つことは、そこに込められた職人の魂も真から絶つこと。絶ってしまえば二度と戻らないもの。
だから、人間くさいギンコは、蟲を硯から解放して天に還し、”たがね”が心に抱えた罪をも 硯とともに昇華させようとします。

taganeたがね”の魂が再生するには、今すこしの癒しの時が必要でしょうが、「また硯を作ればいいさ」というギンコに、「そうだね」と答える”たがね”からは、今回の事件で氷ってしまった心も、少しずつ融けはじめているようです。

今回のお話が暗いトーンにならなかったのは、化野せんせいとギンコの軽妙さと洒脱さに助けられているところが大きいですね。
硯の処理について相談する場面で、”たがね”からは窘められ、ギンコからは責められる化野せんせいには笑かします。(墓穴は掘るし懲りないし)

ところで、関東地区では今回は『やまねむる』との2本立てだったそーですね。
関西地区では1本ずつ放送なので『やまねむる』は来週ですが、ムジカの想いに、朔の哀しさに涙しそーです。
もう、2巻には戻ってこないと思って原作は読んでしまったのですが、人間の切なさとか、やるせなさ。そんなことに関わらない自然の大きさを見せてくれることに期待しています。

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蟲師#9 「重い実」

蟲師#9話「重い実」。

TVは放送後とっくに見ていて下書きはしていたものの、感想を放ったらかししていました。
今更の内容で読んでもらうほどのものではありませんが、自分の覚書として、来年に持ち越さないように、遅ればせながらUPします。

祖先(ちちはは)の骸(=原作では”血肉”)に根を張りし苗よ
青い青い葉を伸ばせ
重い重い実を付けよ・・・

今回は趣を変えて、#1話の蟲紹介以来のアバンタイトルで始まったかと思ったら、本編入ったら、こらまた思いっきり重たいナレーション。
一気に首がどーんと項垂れてしまいました。(反面、重たいテーマを如何に描いてくれるのか、かなりの期待ができましたが)

浅薄な身で思い出されたのは、
「櫻の木の下に死体が埋まっている」と言ったのは梶井基次郎。(櫻の木の下には)
「赤い鳥と白い鳥が埋められた桃の木は罪の果実」と描いたのは川原泉。(Intolerance・・・あるいは暮林助教授の逆説)
程度です。(^^:
常ならざる豊穣、美しいものには、命を糧としたそれなりの理由があるようです。

さて、今回のお話のキーは蟲というより、蟲も含めた生命の根源を凝縮した”ナラズの実”。

物事には因果というものがありますが、物語の中では、ナラズの実の力という”因”により、天災の中でも、異常とも言うべき豊作の”果”を受け取ることができます。
しかし、自然の理に反した”果”は、歪んだ”因”となり、更にその”果”として一番生命力の弱っている者の命を求め、凝縮して「瑞歯」となり、次の”ナラズの実”となります。

世界は大いなる調和で保たれているもの。

歪んだ形でもたらされた福には贖いが必要。それは必然とわかっていても、一つの命で多くの命が助かるならば、惑うのが人間でしょう。
それを仕方ないこととして言い聞かせ、他人事として(心の)目をつぶれば、かすかな痛みをやり過ごすだけで済むかもしれませんが。

現に、村人達は”ナラズの実”の仕掛けを知らないまま、その現象を「別れ作」として忌避しながらも、奇跡の豊作には自分達が、自分達の家族が生きるために感謝しています。

それを誰が責めようもありませんが、今回の話の主役である祭主は、20年前の天災の際に村のために”ナラズの実”を使い、自分の妻がその代償となったことで、苦悩し、一人ある決心をしています。

を始めとした村人たちを助けるために使った”ナラズの実”。しかし、その代償は身体が弱っていることを隠していた妻の命。生きるためには妻の命を糧とした米を食べねば存えぬ身。食べることが自分の血肉となることを渇望してしまう身体を抱えた業に声なき慟哭を上げながらも・・・。

一方、妻は”ナラズの実”のことは知らずとも、「別れ作」のことは伝え語りで聞いていたのでしょう。自分の命が夫である祭主の命を存えてくれることを願い、「別れ作」で得た米を炊いて夫に優しく差し出します。

この、皮肉なすれ違いに涙してしまいます。

”ナラズの実”による豊作は、他人の命を食むこと。
今回の物語の話だけでなく、他の命を食んででも生きることを願うこと、生きることをやめられぬこと、それは生命に等しく与えられた業ではありますが、だからこそ手を合わせて”いただく”ことを忘れないように願いたいものです。

・・・代々の祭主も、苦悶しながら心の中で血を流し、”ナラズの実”となった人を生涯かけて供養し続け、供養するために土地を自然に豊かにする改良に自らの心血を、命を注いだと、そう思いたいものです。

しかし、理に反する行為は、いつしか自然を歪めかねず、人の心も砕きかねないもの。
この連鎖を断ち切るために、件の祭主は”ナラズの実”を処分することも考えますが、妻の命を糧とした事を無為にできず、次に村のために使う際は、その恩恵を受けるための最後の代償として自分の命を差し出すことを覚悟して実を持ち続けます。

そして、今回の天災で実を使用し、自分に生じた「瑞歯」の処分を、あえて”ナラズの実”の真実を隠して、次の祭主として育てていたサネに託そうとします。

まだ子供であるサネに託された想い。

子供には重過ぎるものではありますが、その重さに耐え、次の祭主として、豊作の祭事を務め上げた後のサネの沈痛な表情が印象的です。

祭事の宴では、村人たちが何もしらず「別れ作」ではなかったことを囁きあって喜んでいますが、それは祭主とサネの悲しみがあってのこと。皮肉です。
でも、その悲しみを他に知られないことも、また二人の想い。
この世の幸は、自分が知らずとも、誰かの想いによって支えられていることを考えれば、御蔭様という言葉を心を、大事にしようとも思うものです。

単純な物語だったら、祭主の心情を描き、サネの今後を予感させながら、ここで終わるということもあるのでしょうが、最後の一捻りを与えてくれるのが、この作品の素晴らしいところ。

ギンコは事切れた祭主に”ナラズの実”を与え、生命を呼び覚まそうとします。
しかし、それは人ならざるモノとして、永遠に近い時を生き続けなければならないこと。
それでも、その覚悟をギンコが祭主に生前問うたとき、祭主は「答えなど決まっている」と呟きます。

そして、祭主は、自分のやった事の行く末を、土地の行く末を永遠に見守っていくことになるのですが、一方では、それは永遠の時をかけて自分の犯した罪を贖っていくことかもしれません。
最後のカットなぞ、昔語りの一幕でも見るようです。

しかし、#7話の「雨がくる虹がたつ」といい、男同士の話のときは、なんか心に染み入る、えぇ話になります。
父親から息子への想い、師匠から弟子へ伝える想い、先達から次代へ繋げる命の想い。
男は女と違って、自分の中で生命を育み残すことができないから、他に生きた証を残し、想いを伝えるぐらいしかできないんですね。時には命を賭してまで。

祭主とサネの関係は、原作#2巻「やまねむる」のムジカとコダマの関係にも似てると思いますが、「やまねむる」での出来事とあわせると、今回の祭主へのギンコの行動がより深く感じられます。
そーいえば、次回「硯に棲む白」の次は、原作#2巻に戻って「やまねむる」らしいですね。

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05年10月度復習そのに(週後半木~日)

では、前回の続き。


かりん」(☆☆)
24:00WOWOW
ちょっと、なんてーか、見事にアレっぽい絵柄だけど、ライトラブコメおっけーです。
ブーーーーッ!!

SHUFFLE」(☆☆)
24:30WOWOW
のっぺりした塗りと顔が、実は最初からいまいちノれてない理由。
最近の楓編の展開は意表を突いてくれたが、全体のシリーズ構成的には、どーも食傷ぎみ。

ノエイン」(☆☆)
26:05サンTV
これも1クールかと思ってたら、続くのか?2クール。
あまり期待してなかったけど、じわじわと味が出てきてる・・・かな。


週一日の安息日・・・っても、前夜のノエインがある。
そして、翌日深夜に備えての休憩。


ウルトラマン・マックス」(☆☆)
7:30MBS
ネクサスに比べると、単純明快!復古趣味!だったはずで、それはそれで気楽に流し見れるけど、ときどき混じる味のある話が○。

今日からマ王」(☆)
9:00BS11
いや、もういつやめてもいーんですけど、たらたら見てる。
まさかの2年目入ったときは驚いたけど、よく休むし、よく復習やるしで、実質は1年ちょっとか。(さすがNHK)
画はすっきりしてて、健全なBL系で、子供に優しいお話で、さすがNHK。

BLOOD+」(☆☆)
18:00MBS
謎とはったりで引っ張るだけ引っ張っといて、実は大したオチじゃなかった・・・なんて中だるみや尻すぼみにならないように祈ります。

強殖装甲ガイバー」(☆☆)
19:00WOWOW
ノンスクじゃないせいか、いまいち話題にならないよーですけど、原作に忠実にアニメ化されてると思う。・・・が、やはり画が地味。^^;
クロノスの非情さは、仮面ライダーFIRSTのショッカーに爪の垢でも煎じて飲ませたいほどだけど。(←まだ言う)

格闘美神 武龍」(☆)
25:30TV大阪
やぼったい絵柄。ベたなお話。
そこを通り過ぎた後には感動が・・・あるかー!

地獄少女」(☆☆)
25:55MBS
画は比較的まともなのにねー。
あいかわらずの地獄流し前のコントが・・・。ε=(>ε<)
少し毎回の展開が変わってきたので、なんとか持ち直すか?
それにしても、あいちゃん家のマックclassicっぽいPCが笑かす。

クラスター・エッジ」(☆)
26:05TV大阪
ほんまに話が進まん番組だ。バンク代わりの回想ばっかなど、種(死)の悪いクセに味をしめたな、サンライズ。制作進行の手抜きちゃうか。
これで2クールもたせるんだから、楽でいーねー、ミーハー系は。
どこが「エッジ」の効いた作品だ?!(そんなCM恥ずかしいぞ)

BLACK CAT」(☆☆)
26:25MBS
小じゃれた絵柄と演出で、なかなか見れる作品。
なんといってもEDが好きだー!(どこでも言う)

牙狼(GARO)」(☆☆)
26:40TV大阪
アニメに比べると実写は地味に見えてしまうけど、数話過ぎた頃からなかなか面白くなってきました。ウィヤーも使ったアクションは結構見れます。

ローゼンメイデン・トロイメント」(☆☆☆)
26:55MBS
各ドールの性格づけに拍手。それぞれ、いい味だしてます。
でもTVシリーズの宿命で、どーしても画が荒れるんだろーな~。
MBSでは始まったばっかなんで、これからに期待。

蟲師」(☆☆☆☆☆)
26:50ごろ関西TV
絶対、誰がなんと言っても、現在放映中で最高の出来。
もう、1/3過ぎたけど、ここまでLVを維持できるのが賞賛に値します。
まぁ、激しく動くアニメじゃないので、その分、動画枚数おさえて、演出や美術、レイアウトに力いれられるんでしょーけど。
見事な間とカメラワークで深みのある画面作り(更に見事な音響演出が相まって)は、日本のリミテッドアニメの真髄を見た気がします。(最高峰は出崎&杉野ですが)
もう、制作は終わりつつあるのでしょうが、ほんまに26話頑張って欲しいものです。

銀盤カレイドスコープ」(☆)
27:10TV大阪
お気楽、ふつーな展開の作品。原作は読んでないので、原作の悪口を言う気はありませんが、かわいそーに。
アニメ化商売企画した人達はトリノ人気便乗を狙ったのでしょーが、現実の女子フィギュアの方がよっぽどキャラも展開も話題あるし。
頑張ってはいるのだろーけど、高松信司にしては汚点になりそう。(あ、タカマツシンジは別人か・・・^^;)

灼眼のシャナ」(☆☆☆)
27:25MBS
うーむ、こんな展開、好きです!久々に意識して見る渡部高志だし、きちんと見れそう。
画がときどきヘタれるのは愛嬌。
しかし、ドールマニアだったり変態兄妹だったり、紅世の徒って変な人たち。^^;


エウレカセブン」(☆☆☆☆)
7:00MBS
放送始まる前は軽くみてたけど、放送開始時から、しっかりとした作りで見せてくれます。
まぁ、1年物なので、ときどきアレレな回が入るのは眼をつぶって・・・と。
同じMBSでも、鋼錬のGONZOだから、種(死)のサンライズみたいにはならずに、きちんとまとめてくれることを願ってます。

魔法戦隊マジレンジャー」(☆☆)
7:30ABC
個人的には、宇宙刑事テイストの入った前作デカレンジャーが良かった。
でも、子供のための番組だから、人気の魔法物は仕方ないのね・・・。
てなわりには、バンキュリアの女の子バージョンが、しっかりゴスロリ系なのは、誰の趣味やら。

仮面ライダー響鬼」(☆☆☆)
8:00ABC
果たして、トドロキは復活するのであろうか?
あそこまで言われて、復活した日にゃコメディでしかないから、さすがにそれはないと思いますが・・・。斬鬼さんもね。
しかし、人気取りと視聴率のためには、話が破綻しても何やらかすかわからんからな、この枠は。
それにしても、装甲響鬼のバックパックの二本差しは、最後まで抜かないのだろーか?
最終回だけの一発技か・・・。

***** で、1週間終わり。
いつかは減らさないと死にますな、これは。眠いし・・・。( _ _ ).。o○

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蟲師 #8 「海境より」 ~男のメロドラマ

浜には何かと物珍しいものが流れ着く。
南方の木の実や・・・・・・・・

・・・まれに・・ヒト。
もしくはヒトを乗せぬ空船・・・。

うっひー
まった、冒頭からめっちゃ恐いナレーションで始まる今回。\( ><)シ
舟幽霊か、常世の国への葬送の舟か、と思ってしまいました。

今回、少しネタばれぎみに(かなり)長く書き込んでしまったので、以下を読む場合はご注意ください。
↓↓↓↓↓

問屋勤めを解雇されて海沿いの故郷へ帰る途中の男”シロウ”。
連れ添う妻”みちひ”は、問屋の主人の次女。(←お嬢様育ちなので少し気が強そう)
今までの暮らしと比べて、あまりに田舎な土地に”みちひ”は帰ろうと言いますが、”シロウ”が解雇された理由をきっかけに、ちょっとした諍いから若い二人は心がすれ違ってしまいます。
”シロウ”は問屋でも才覚があったらしく、そんな”シロウ”に再起してもらいたいという想いから”みちひ”はつい言葉を誤り、”シロウ”も自分の不甲斐なさから自嘲気味になっていたために言葉を誤ってしまいます。

世間では、よくある事・・・。
よくある事だけど、そんな状況の時に蟲が起こす現象に遭遇したことが、二人を永遠に別つことになってしまいます。
”シロウ”が言った言葉は本心からではなく、”みちひ”も少し拗ねてみただけだったのでしょうが、”シロウ”の言葉に失望を覚えてしまったままだった”みちひ”は、蟲の起こす現象の靄の中、自分の行く道が見えずに舟に乗ったまま蟲と共に沖合いに消えていってしまいます。
そして、とある漁師村に流れ着いた”シロウ”は永久に懺悔しつづけるかのように、村人に奇異な目で見られながらも、自分と同じように”みちひ”(の遺品)が流れ着くのを待ち続けます。
既に”みちひ”が死んでいることはわかっていながらも、その「証」が確認できるまでは、後悔を抱えたまま自分の心が先に進めないかのようです。

でも、人は一人では生きられないもの。
それまで村人との交わりもほとんどなかったと思いますし、気まぐれだったのかもしれないけど、ふとしたきっかけで村娘の”ナミ”の商売を助けたことから、村人からも”ナミ”からも頼りにされ、慕われ、自分の居場所となっていきます。
村人や”ナミ”への話し方や態度から見て取れる”シロウ”は、本当は心優しい人なのでしょう。優しいが故に誤解も解けずまま問屋を解雇され、”みちひ”への想いも完全に決別できないまま・・・。

が、そんな時に、再び蟲の起こす現象が発生し、もしかしてという思いの下に、”シロウ”は靄の中にギンコと共に舟で乗り出していきます。
そして、靄の中から舟鳴りの音とともに現れる”みちひ”が行方不明になった舟。
舟の中には”みちひ”の遺体とおぼしき着物。
覚悟はしていたものの、意を決して着物をめくり確かめようとする”シロウ”。
その着物の下には・・・。

[ ここらへん凄く残酷なほどの緊張感です ]

そして、海の向こうに陸を見まごう”シロウ”。
蟲が生み出す靄の中から陸が見える者は生きたいと願う者、帰るべき処がある者。
では、帰るべき陸を見出せない人は?海の向こうに帰るべき処を見てしまう人は?
現世の陸から離れて、蟲の時とともに生きる処。常世の国。ニライカナイ。此の地を疎み、彼の地を願う人でしょうか。
これまで靄とともに消えた人と舟は空の舟だけが戻ってくるのですが、それは生物としてのヒトが生命の源流に近い蟲とともに永くあるがために融合されてしまうからでしょう。
蟲の時とともに在った”みちひ”は既にヒトならざるものだったのですが、”シロウ”に逢いたいという想いだけが舟とともに帰ってきたのでしょうか。

”シロウ”と”みちひ”にしか蟲が見えなかったのは、心の中に絶望とか失望を抱えていたためでしょう(貧しい漁師村の人々に、逆に蟲が見えないことと対象的です)が、今回の蟲は水精の一種の蛟のようなものでしょうか。
群体が一体の成体となるとき昇龍のように天に昇っていきますが、その波に巻き込まれて、”シロウ”とギンコは浜に打ち上げられてしまいます。
そして、遅れて浜に打ち上げられる”みちひ”が乗っていた舟と遺品。
浜に寄せる波に洗われる「かんざし」や着物に長持。
今度こそ本当に”みちひ”との決別を突きつけられる”シロウ”。

誰のものとも知らない綺麗な着物を手に取り喜んでいる”ナミ”の声に答えて浜に下る”シロウ”ですが、カメラは”シロウ”の後姿をロングで捉えたままEDロールに入ります。
(この突き放すかのようなロングのカメラワークが、またたまりません)
”シロウ”の表情は定かではないのですが、”みちひ”の事を自分に言い聞かせながらも、目は涙でかすんだまま、”ナミ”に”みちひ”の姿を重ねて見てしまっているのではないかと勝手に思ってしまいます。
また、最後まで見た後では、お話の冒頭に挿入されているEDに続くであろう浜で「かんざし」を拾い上げるシーンでも、更にいろいろ考えてしまいます。

(たぶん皆が帰った後)流れ着いていた”みちひ”の「かんざし」を拾い上げて、頼りなさげに歩き出す”シロウ”。
その「かんざし」が置去りにされていたのは、見逃されていたのか、取るに足りない物だったからなのかはわかりませんが、ひょっとしたら、使用人である”シロウ”が給金の中から、勤め先のお嬢さんである”みちひ”に(無理して)贈った物だったのかもしれません。
だから、それほど高値の物ではないだろうし、細工など他の人には大した物ではないのでしょうが、”みちひ”と”シロウ”にはとても大事な物。
「かんざし」を拾った後の”シロウ”が、ふらふらしながらも、海の方に向かうカットでなかっただけ救いですし、蟲に融合してしまった”みちひ”も昇龍とともに生命が天に還ったと思えば、まだ救いがあるかもしれません。
死んだ人を忘れずに悼む気持ちは大事ですが、死んだ人に囚われることは死んだ人も望んでいないでしょうし・・・。
自分を必要とし、好いてくれる”ナミ”が傍にいてくれるので、哀しみを抱えながらも穏やかに生きていってくれたと思いたいものです。

今回は蟲の生きる時間の違いをキーとした時間軸の差異による現象(SFだったらウラシマ効果?)を叙情的に織り込んだお話でした。
まぁ、全てが論理的に説明されているわけではないのですが、昔話だったら、神隠しにあった人が戻ってきたら時の流れが違っていたというとこですね。
今回の設定の場合、神隠しにあったら、戻ってこずにそのまま神として(ともに)天に還ってしまうのですが。
再出現した蟲の靄の中で”みちひ”の舟を見つけた後の展開にはラストまで、もう涙ぼろぼろでした。(・_・、)

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